明田川オカリーナ& アート記念館とは…
『明田川オカリーナ&アート記念館』は、彫刻家であり、音楽研究家であり、「日本のオカリーナの父」としても知られる明田川孝(あけたがわたかし 1909-1958)の生涯と功績をご紹介し、今後の彫刻界・オカリーナ界の発展に貢献することを目的として、期間限定で開館される記念館です。
"Aketagawa Ocarina & Art Museum (AOAM)" was founded to introduce the work and life of Takashi Aketagawa (1909-1958), who was a Japanese sculptor and music researcher, especially known as an inventor of 12-hole ocarina.
1909年、新潟に生まれた明田川孝(彫刻家・音楽研究家)は、その少年時代、まだ「音の出る玩具」の域を出なかったとされる素朴な土笛・オカリーナに心を奪われて研究・制作を始め、日本がまだ戦後の荒廃から復興へと歩み始めて間もない1948年、「楽器」として通用する完全クロマティックの「12穴式オカリーナ」を、世界に先駆け、完成させました(1950年に実用新案取得 PAT. Reg. No.379907)。さらに孝は、オカリーナのことを文章に綴り、楽譜を作り、演奏にも力を注いでこの楽器の普及と発展に努め、その伝統と精神は現在「アケタオカリーナ」に受け継がれ、世界中の人々から愛されています。
一方で孝は、東京美術学校彫刻科塑造部(現・東京藝術大学)に学び、国画奨学賞や新興美術家協会新作家賞を受賞。1936年には国画会彫刻部有志と造型彫刻家協会を結成し、故郷の山川、そこで暮らす人々の生活を詠ったカナモジ詩集《スダマ》を発行して詩人としての才能も示します。その後、1939年にはのちに日本の彫刻界を代表する存在となる本郷新、佐藤忠良、舟越保武らとともに新制作派協会(現・新制作協会)彫刻部を創設し、1958年に亡くなるまで同会の中枢的存在として数々の作品を発表しました。とりわけ自然と人間との濃密な関わりに題を求めた作品が高く評価されており、現在、それらのいくつかは新潟県立美術館の所蔵品となっています。
西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
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1909年 | 明治42年 | 0歳 | 新潟県北魚沼郡藪神村(現・魚沼市)に誕生 |
1916年 | 大正05年 | 7歳 | 新潟県北魚沼郡藪神村藪神尋常高等小学校(合併のため1976年に廃校)に入学 |
1921年 | 大正10年 | 12歳 | 医者への道を進むべく上京し、東京・代々木の姉夫婦に預けられる |
1922年 | 大正11年 | 13歳 | 東京府豊多摩郡山谷尋常小学校(現・渋谷区立山谷小学校)を卒業 |
日本大学中学校(現・日本大学第一中学校・高等学校)に入学 ※ ※「日大二中」と表記されている文献もいくつか存在しますが、当時「日大二中(日本大学第二学園、現・日本大学第二中学校・高等学校)」はまだ開校されておらず、その後の調査・研究によって、明田川孝が入学・卒業したのは「日本大学中学校」であることが確認されています |
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1927年 | 昭和02年 | 18歳 | 日本大学中学校(現・日本大学第一中学校・高等学校)を卒業し、日本大学法文学部に入学するが、同年退学、彫刻を志し二科研究所に学ぶ |
1928年 | 昭和03年 | 19歳 | 東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科塑造部に入学 |
銀座の百貨店「松屋呉服店」(現・松屋銀座)で運命のバスオカリーナと出会いオカリーナ制作を決意、研究・制作に着手 ※ ※過去の記事の中には、オカリーナの研究・制作に着手したのは「1929年」と表記したものもありますが、その後の調査・研究によって、「1928年」であることが確認されました |
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1933年 | 昭和08年 | 24歳 | 東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業 |
1934年 | 昭和09年 | 25歳 | 国展第9回展に《仔山羊》《アルプ》を出展し、国画奨学賞を受賞 |
1935年 | 昭和10年 | 26歳 | 第1回新興美術家協会展に入選 |
1936年 | 昭和11年 | 27歳 | 第2回新興美術家協会展にて新作家賞を受賞し、会友に推薦 |
明星学園小学部美術工作担任に就任(-1937年) | |||
国画会彫刻部有志と造型彫刻家協会を結成 | |||
自書自刻自刷の詩集《スダマ》を造型彫刻家協会から発行 | |||
1937年 | 昭和12年 | 28歳 | 国画会同人に推薦 |
恵泉女学園普通科高等科美術工芸担任に就任(-1951年) | |||
1939年 | 昭和14年 | 30歳 | 国画会を脱会し、本郷新、山内壮夫、吉田芳夫、舟越保武、佐藤忠良、柳原義達とともに新制作派協会(現・新制作協会)彫刻部の創設に参加 |
1940年 | 昭和15年 | 31歳 | 結婚し、東京・荻窪に居を構える |
1946年 | 昭和21年 | 37歳 | 長野県池田木工工業家具設計製作指導に就任 |
1947年 | 昭和22年 | 38歳 | 早稲田大学工芸美術研究所講師に就任 |
1948年 | 昭和23年 | 39歳 | 「12穴式オカリーナ」を完成 |
1950年 | 昭和25年 | 41歳 | 「12穴式オカリーナ」実用新案を取得(PAT.Reg.No.379907) |
オカリーナ合奏団「ブドリオ オカリニアーナ」を結成 | |||
「レル民族楽器研究所」を主宰してオカリーナ制作をさらに本格化 | |||
日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ株式会社)が孝のオカリーナの発売元となる | |||
1952年 | 昭和27年 | 43歳 | 大橋次郎商店(現・株式会社プリマ楽器)も孝のオカリーナの発売元となる |
1953年 | 昭和28年 | 44歳 | 合成樹脂のオカリーナの試作により、東京都知事賞を受賞 |
1958年 | 昭和33年 | 49歳 | 8月13日、病のため東京・新宿の宮川病院にて49年の生涯を閉じ、愛してやまなかった故郷・魚沼の地に眠る |